水星の魔女第19話におけるシャディク・ゼネリの気持ち悪さに対する気持ちの悪い考察
さて。今回は水星の魔女第19話におけるシャディクの気持ち悪さについて少し書いてみます。個人的な印象と分析なので的外れでしたらご容赦ください。
彼に同情の余地があるとすればその生い立ちから自分を誇大に見せ続け期待を集め続けなければならなかったということですが、残念ながらそれが今回全て悪い方に出ました。
シャディク・ゼネリはアーシアンでも別格の成功者です。せっかく手に入れたサクセスを台無しにはできないわけです。しかしその成功は脆く崩れやすいものでもあります。養父に見限られればそこまでで終わってしまう儚いものです。ゆえにその成功を維持し続けるためにはなんでも知っていてなんでもできるように見せ続けなければならない。
そんな、一度の失敗が致命傷になるかも知れない立場の彼には酷な話かも知れませんが、気持ち悪いものは気持ち悪いので色々と書いていきます。
ミオリネの隣というシャディクにとって公私共に垂涎であったはずの地位は一方で全てを失わせるリスクの高いものです。一度たりともグエルに挑まなかったのも敗れて養父から見放されるリスクを考慮したものだと推察します。
そういう前提に立って今回の挙動を振り返りますと。自分が誰よりもミオリネを理解して大切に思っているという態度をとっていますが。彼はそうする資格を既に失っている自覚がありません。ここがまず気持ち悪い。
自己保身に走りつつ、自らが直接ミオリネに対する責も負わず。安全地帯から他責だけを行う。まぁ、気持ち悪いですよね。
そしてここからは完全に私の邪推ですが。今回の「汚したな」発言で再認識したのはシャディクにとってミオリネは崇拝対象だったんだろうなという事です。「守れなかったな」ではなく「汚した」という表現はそういう感情の発露だと読み解きました。
生身の人間としてのミオリネ・レンブランではなく偶像として見ていたから隣に立ってその偶像が壊れてしまう事を恐れ、また自らの手で傷つけ壊してしまうことも恐れていた。彼の本音は「俺のものにも誰のものにならないでくれ」だったんでしょうな。
憧れというものは少年が成長していく中で乗り越えるべき壁なのですが。上述のとおりそうするにはシャディクは守るべきものが多すぎました。それらを失うリスクを取らず、そして心の中の偶像を守るにはこれまでのように達観した態度が都合が良かったわけです。
グエルは自分にないものを持っている者同士としてミオリネを諦める言い訳にはちょうど良い組み合わせだったわけです。で、自分のせいでこうなったことを無視して「汚したな」と責めた裏には「俺に無いものを持っていた癖に」という歪みがあるわけです。
なんだか取り止めがなくなって来ましたが。鬱屈した感情と女性を必要以上に神格化し憧憬を抱く姿が混ざり合ってあの特有の気持ち悪さを生み出したものと考察します。
以上、益体もない考察にお付き合いいただきありがとうございました。
久々にこういうものをやってみましたが、なかなかに楽しいです。一方でこれやっていると小説が書けなくなるので程々にしておきます。
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